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2021-01-25

親のこと・お葬式顛末記・・・三本の矢が折れた時

こんにちはレッサーパンダです。実は昨年末からレッサーパンダ家は経験したことのないピンチを迎えました。なんと昨年の暮れに親世代の「入院」、「施設入所」、「葬儀」が1か月ほどの間に集中しました。

年末に実の叔母が心臓麻痺で急逝しました。あっという間のことで未だ実感がありません。

年末に実の叔母が心臓麻痺で急逝しました。あっという間のことで未だ実感がありません。

「三本の矢の教え」さながらの暮らしぶり

皆さん、「三本の矢の教え」ということわざをご存じでしょうか。戦国武将の毛利元就が、子の隆元・元春・隆景に授けたという教えです。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめれば折れにくいことから、一族の結束を説いたとされています。 レッサーパンダの両親は叔母と同居していました。数十年前、独身だった叔母が父の家(レッサーパンダの実家)の隣に引っ越して以来、助け合いながら仲良く暮らしておりました。「三矢の教え」さがなら、3人で何かあれば相談をし、力を合わせ元気に暮らしておりました。高齢になっても自立し、元気でいてくれる親たちにレッサーパンダは心から感謝をしておりました。

強いはずの三本の矢が折れた時・・・

そんな3人暮らしに事が起こったのは11月の終わりでした。元気なはずの母が急に歩けなくなったのです。救急車を呼び近くの総合病院で診断を受けると「大腿骨脱臼」。左足の骨が骨盤から外れてしまって役に立たない状況でした。即刻入院となり一人ではトイレにも座れないという深刻な状況です。大慌てで入院の手続きやら身の回りのものやらを用意したのですが、時悪くコロナウィルスにより病院内は戒厳体制です。入院したきり面会もままならない状況でした。

不思議なもので、これまで3人で暮らしていた時には食事も整頓もお風呂も曲がりなりにも何とかなっていました。ところが母の入院をきっかけに、残された父と叔母の暮らしが極端に乱れだしました。洗濯もできず、掃除もままならない。一番ひどかったのは食事です。いったいこの数日何を食べて暮らしていたのやら。実家はレッサーパンダ家からは近いのですが、別居をしていますので日々の様子がよく良く分かりません。どうやら、まともな食事ができていなことがわかり、私たち息子夫婦が交代で総菜やお弁当などを届けて何とか凌いでいるありさまでした。一時、同居も考えたのですが、小さな子供もおりますし、狭いマンションで2人も人が増える暮らしは成り立ちません。そうこうしている間に、明らかに二人のADL(日常生活動作)が衰え更衣や容姿の身だしなみへの関心も極端に下がりだしました。

これでは、いつか大きな事故になる・・・と思い、家の近くで安全に生活できる場所を探しました。本当に運が良かったのですが、父親が人工透析に通うクリニックがサービス付き高齢者住宅を経営しており、偶然2室の空きが同時に出ました。大急ぎで契約を済ませたのがクリスマスイブの夜。先方にご無理を言い何とか12月28日に緊急入居をさせていただくことが決まりました。やれやれ、ほっと一息つけました。ところが・・・

12月28日からは記憶が無くなるぐらいの大忙し

ところが・・・神様、仏様はレッサーパンダに優しく微笑んではくださいませんでした。父親と叔母の施設入居に備え12月27日にベッドやテレビなどの家電、生活に必要なものを一式揃えました。ちょうど名古屋から年末帰省していた弟と二人でカーテンを吊りベッドメイクをし翌日からの二人の生活が快適にできるよう準備を整えました。クタクタになって帰宅したのが27日夜の9時頃。お風呂に入り一人で明日の親たちの入居の段取りを考えていた午前1時頃、弟から携帯電話に着信が入りました。

電話に出ると弟はしどろもどろで、初め何を言っているのか意味が良く分かりません。 落ちつかせて話を聞くと「風呂場からなかなか出てこない叔母の様子を見に行ったところ叔母が倒れていた。風呂から抱え起こしてキッチンまでは運んだが息をしていないみたいだ!!」とのことでした。

ここから年末年始のジェットコースターに飛び乗ったような日々の始まりです。

救急車を呼び、一番近い徳洲会病院に担ぎ込んだのですが意識不明。深夜にも関わらず複数のお医者さん達が丁寧な対応をしていただきました。病院に着いた時には既に息が無く、残念ながら午前2時4分に死亡が告げられました。あまりの呆気なさとその驚きで悲しみよりも何が起こっているのかわからない混乱の中、追い打ちをかけるように次々と色々なことがやってきます。

救命室から出ると待っていたのは二人の警察官でした。死亡時の様子の聞き取りのためにやって来たのです。事情聴取は午前2時半から始まりました。第一発見者の弟は叔母に対して強く責任を感じており、見ていられないくらい憔悴していました。そんな弟に容赦なく詰問が始まります。家庭での死亡ということで『事件性が無いか?』を疑う聞き取りのようです。弟のあまりの憔悴ぶりに、レッサーパンダが受け答えをしていましたが、第一発見者は弟ということになりますので、やはり質問の多くは弟に向けられます。そんな厳しいやり取りが終わったのが午前3時半頃でした。すると今度は違う制服を着た逞しい体型の男性警察官が5名やってきました。「今からご自宅で現場検証をさせてください。」とのこと。「疲れているので明日にしてもらえませんか?」とお願いしても答えはノーでした。有無を言わせず(最終的に一人増えて)6人の男性が自宅を訪れ倒れた風呂場、自宅の居室、貴重品の保存場所などを検品し数えきれないほどの質問が二人に浴びせられました。現場検証が終わり口もきけないほど疲れ果てて居間の時計を見ると午前7時前でした。

自宅に一旦帰り、ひと眠りしようかと思いましたが、そのまま親しい親戚に電話を入れ状況を伝えました。続いて葬儀場(こんな事も有ろうかとセレマに積み立てをしていましたので)に電話をして葬儀の段取りにかかりました。結果、ちゃんとした睡眠がとれたのはそれから24時間後でした。

これまでそんなこと全く知らなく、気にもしていなかったのですが「年末年始は火葬場」が込み合うとのことでした。一体いつ葬儀をしたらいいのか考え込んでしまいました。でも、ゆっくり考えている暇もなく可能な日の中から選択を迫られるという状況でした。

親戚の中には「年内に火葬にして、葬儀は正月済んでからゆっくり執り行えばいいよ」という人もいましたが、結果12月30日(水)にお通夜、12月31日(木)に葬儀を行うことにしました。年が変わるとみんな仕事もあり忙しいですし、気分を切り替え新たな気持ちで新年を迎えたかったのです。何より叔母を何日もそのままにするのが、とても悪いことをしているような気がしてならなかったからです。年末押し迫っての葬儀でしたから、家族と本当に親しい親族だけの20人にも満たない葬儀となりました。

当初、葬儀日の12月31日は大雪という天気予報でしが、寒かったものの綺麗な晴天でした。

身内だけの家族葬とはなりましたが、何とか無事に葬儀を済ますことができました。

身内だけの家族葬とはなりましたが、何とか無事に葬儀を済ますことができました。

人が亡くなるとは色んな意味でほんとうに大変

翌日の元旦は午前中、雑煮やおせち料理で家族だけのお祝いをしました。やっと一息つけましたが、ゆっくりできたのはその半日だけでした。その日の午後からは叔母の葬儀に係ったお金の計算や支払い、遺品整理に各種手続きの準備に明け暮れました。(年金の停止や市役所への死亡届に始まり、医療保険、介護保険証の返却、公共料金の停止などなど数々の手続きがあります。)

中でも(1月も終わりだというのに)いまだに苦労しているのは相続の手続きです。先に書きました通り叔母は独身で子供もおりませんでしたので、相続人は兄であるレッサーパンダの父になります。高齢者なので諸々の手続きはできませんので、レッサーパンダがすべて行うことになります。

高齢者でなくても難解で面倒な手続きの数々に辟易としてしまいます。苦戦しています。

高齢者でなくても難解で面倒な手続きの数々に辟易としてしまいます。苦戦しています。

実は一等親である親子や夫婦などの相続は比較的簡単なのですが、2等身以上の相続は大変です。遺産を受け取るには各金融機関や保険会社に亡くなった人の『原戸籍』(はらこせき・その人が生まれてから死ぬまでの戸籍)を提出しますが、2等身以上の相続は相続人の兄弟関係が分る戸籍に加えて、彼らの父母(レッサーパンダからすると祖父母)の原戸籍を揃える必要があります。祖父は第二次世界大戦前に亡くなっていていまして、これが本当に大変!また、レッサーパンダの父が相続をちゃんと認識しているか確認のため各金融機関が面談にやってきます。もし、認知力低下などと判断されると成年後見人が確定するまで遺産は凍結されてしまいます。何という手続きの煩雑さ、融通の利かなさ!!辟易としてしまいます。

亡くなった方の戸籍を集めて回るのは、その方の人生の軌跡を追うようでとても興味深いのです。でも、これがまた、本当に大変です。戸籍がとんでもない街にあったりします。子供世代が知らなかったインディビュジュアルでセンシティブな事柄も色々と見えてきます。あまりにも大変なので司法書士さんや税理士さんの力を借りようかと思っています。

亡くなった方の戸籍を集めて回るのは、その方の人生の軌跡を追うようでとても興味深いのです。でも、これがまた、本当に大変です。戸籍がとんでもない街にあったりします。子供世代が知らなかったインディビュジュアルでセンシティブな事柄も色々と見えてきます。あまりにも大変なので司法書士さんや税理士さんの力を借りようかと思っています。

今回、つくづく「人が死ぬって本当に大変だ」ということを身もって実感しました。故人を偲んで感傷的になっていたいところですが、そんなことはお構いなしに世の中は他人の思惑と都合でどんどん勝手に回りだしているのです(やれやれ)。

宝塚市の市役所にもでかけました。手塚治虫先生の出生地だけあり、こんな写真スポットも。

宝塚市の市役所にもでかけました。手塚治虫先生の出生地だけあり、こんな写真スポットも。

お別れは送る側にとっても大きな節目

今回、叔母とは悲しいお別れになりましたが、いつかは訪れるお別れです。あまり落ち込まずに、「遅いか早いかの違いだけ」だと思うように心がけています。

お別れがあった分、新しい出会いがある。無くすことは、また違う何かを得ることだと信じたいレッサーパンダです。お別れは亡くなった方にとっては人生の終焉ですが、残された皆にとっては新しい人生、暮らしの始まりなのだと思います。レッサーパンダ家には、まだ二人の高齢者がおりますので(故人のことも大事ですが)残された二人の行く末も心配です。まだまだ、心労の尽きない日々が続きそうですが、明るい明日を想って前向きに頑張りたいと思っています。

今日は大変だった2020年の年末のお話でした。それでは、またね。

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