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2019-02-03

料理研究家・土井善晴が語る一汁一菜「ハレとケ」の料理

レッサーパンダです。勤務先の仲間と一緒に定期的に社外の講演会に出かけています。みんなで同じイベントや講演会に参加し、それについ語り合うことは仕事の上でも良いベクトル合わせになります。講師は企業の社長やコンサルタントの先生などビジネスパーソンが多いのですが、たまに有名人講師のお話を聞きにいくこともあります。今回は料理研究家・土井善晴先生のありがたいお話です。

テレビでおなじみ土井先生の講演会に参加しました

テレビなどでご存じの方も多いと思いますが土井善晴先生は日本料理の第一人者・土井勝先生の次男。フードプロデューサー、有名大学の教授、テレビ番組の講師、文筆活動など、マルチに活躍をされている料理研究家です。レッサーパンダはテレビ朝日系列で先生が講師をされている「おかずのクッキング」というテレビ番組を毎週欠かさず観ています。この日、先生のお話を聞けることを半年前からとても楽しみにしていました。

今回のご講演会のテーマは『大人の食育』でした。お話を聴いて大納得(?)でした。

今回のご講演会のテーマは『大人の食育』でした。お話を聴いて大納得(?)でした。

現代は「作る人」と「食べる人」の関係がおかしい?

お話のテーマは当然『食』です。土井先生は兼ねてから日本料理における『一汁一菜』を提唱されています。一汁一菜(いちじゅういっさい)とは、汁一品(=みそ汁などの汁物)、菜(=惣菜)一品だけのシンプルな食事のことです。「先生がなぜ一汁一菜を提唱されるのか?」について丁寧にお話をしていただきました。

さて、お話はまず大きなお題になります。2013年12月、日本の和食がユネスコ世界文化遺産に認定されました。ユネスコが選んだ「和食」は、料理人が料亭やレストランで出す料理では無く、日本の家庭料理を評価しているのだと先生はおっしゃいます。元々、家庭料理である和食は、本来、「作り手」と「それを食べる人」の関係性が対等でした(例えば母親と子供の関係)。その対等であるはずの関係がおかしくなってきているのではないか?食べる側の人が偉くなり、「おもてなし」と称して商売に偏り過ぎている。本来、和食は家庭のものだったのです(母親の手作りの料理)。それがいつのまにか、お金を払って専門家(料理人)に依存することが多くなり、家庭料理としての和食の居場所がなくなりつつある。家族の居場所を作るはずだった料理が、その居場所を奪っている(外食に偏っている)のではないかと苦言を呈されています。

華美で精緻な懐石料理などが世界からの評価を受けているのかと思いきや、ユネスコが評価したのは「家庭料理」だったとは驚きです。かの道場六三郎先生が技巧をこらしすぎた和食を「手垢の塊」・・・と酷評されていたことを思いだしました。

華美で精緻な懐石料理などが世界からの評価を受けているのかと思いきや、ユネスコが評価したのは「家庭料理」だったとは驚きです。かの道場六三郎先生が技巧をこらしすぎた和食を「手垢の塊」・・・と酷評されていたことを思いだしました。

 

「ハレ」の料理と「ケ」の料理

「ハレ」(晴れ、霽れ)と「ケ」(褻)という言葉があります。民族学者・柳田國男によって見出された、日本の伝統的な世界観です。「ハレ」とは儀礼や祭、特別行事などの「非日常」、「ケ」とは日々の生活である「日常」を現します。土井先生はこの「ハレ」と「ケ」という考え方は料理にもあてはまるとおっしゃいます。本来は「ケ」(日々の生活)の場面が多いのがあたりまえ「ハレ」は特別なシーンでした。それが、いつの間にか特別な料理「ハレ」と「ケ」が逆転してしまっている。「贅沢」や「特別」が増えすぎた現代は価値観がおかしくなりつつある。「ゴミが増える」、「体調を崩す」、「心を病む」といった現代社会が抱える大きな問題は、「ハレ」と「ケ」の逆転が原因ではないかとおっしゃいます。

「ハレ=聖」と「ケ=俗」は本来「聖なる時間 / 俗なる時間」のこと。現代社会は聖なる時間の設えが増えすぎてしまい「ハレ」の日常化がどんどん進んでいる。

「ハレ=聖」と「ケ=俗」は本来「聖なる時間 / 俗なる時間」のこと。現代社会は聖なる時間の設えが増えすぎてしまい「ハレ」の日常化がどんどん進んでいる。

「ケ」の発想!「一汁一菜」が大切なわけ

土井先生は兼ねてから「一汁一菜」のお料理を提唱されています。これはどうやら「ハレ」と「ケ」の逆転に対しての疑問の投げかけのようです。現代社会の偏ったイデオロギーを家庭に持ち込まない。本来あるべき姿である「ケ」の日常を大切にするということです。日本人の御膳は料理の手前に箸を横に起きます。(世界でも食べるための道具を横一文字に置くのは日本だけだそうです。)これは料理と自分の間に線を引く(結界を設ける)ことで、神の物である食物を崇め、合掌してその一線を越えさせていただく(「いただきます」)という意味なのです。それだけ、食べるという行為には真摯な側面があるのです。現代社会の飽食は、その神聖さをおろそかにし過ぎているのではないでしょか?そんな屈折した営みが心や体に良いはずがないのだということが腑に落ちました。先生のお話を聴いていて本当に膝を打つ思いでした。

横一文字に置かれたお箸の向こうは「神様への捧げもの」。その捧げもの(食事に)に合掌してありがたく頂くのが本来の姿なのです。

横一文字に置かれたお箸の向こうは「神様への捧げもの」。その捧げもの(食事に)に合掌してありがたく頂くのが本来の姿なのです。

「一汁一菜」食事の基本に戻ってみたくなったお話

先日、あるテレビ番組で「長寿の妨げになるのは飽食である」ということを言っていました。今回の土井先生のお話と見事に符合するところがあります。シンプルな「一汁一菜」の食事は単なる倹約やダイエットなどではないのです。食事本来の意味(食事とは料理して食べることで、買ってきて食べることや出かけてお金を払う事ではない)を理解し、敬意をもって「戴く」ことなのです。一汁一菜は手抜きをするということではなく、その一椀、一皿を大切に料理し思いを込めることなのですね。

一汁二菜、一汁三菜というのも素敵な考え方。一汁一菜にたまに「一品」嬉しくなるような料理を加えることは暮らしのアクセントになります。週末に少しおかずの品数が増えることで、また来週も頑張ろうという元気と勇気がもらえます。

一汁二菜、一汁三菜というのも素敵な考え方。一汁一菜にたまに「一品」嬉しくなるような料理を加えることは暮らしのアクセントになります。週末に少しおかずの品数が増えることで、また来週も頑張ろうという元気と勇気がもらえます。

約2時間の講演会でしたが、いつも見ている(テレビの向こうで陽気に料理を作っておられる)土井先生とは少し違う、本音を話される姿を拝見することができました(一汁一菜について熱心に語られる姿が本当の土井先生なのでしょう)。昨今は「食の安全・安心」、「食の大切さ」、「食育」などという言葉が、まるで慣用句のように軽く使われていますが、先生のお話を聴いていて本当の意味が解かったような気がしました。

我が家でも一汁一菜、一汁二菜の基本にもどってみようかと思います。でも、「ハレ」が大好きなレッサーパンダはなかなか外食がやめられないだろうなぁ(笑)。頑張ってみようと思います。今日は料理研究家・土井善晴が語られた大切な和食文化のお話でした。それでは、また。

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