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2018-08-15

6000人のユダヤ人を救った杉原千畝から真の勇気を学ぶ/岐阜・杉原千畝記念館

レッサーパンダです。今日は8月15日、終戦の日です。テレビやネットで流れるニュースは総理大臣が靖国神社に行くとか、玉ぐし料を私費で払ったとか払わなかったとか、実に次元の低い話ばかりです。そんな状況ですから、73年前、歴史に残る悲惨な戦争が行われていたことに対し「今の日本からは想像もつかない」、「平和に対する思い入れが持てない」と言う世間の本音を責めるわけにもいきません。「流行」と「軽いノリ」だけが幅を利かせる今の日本においては仕方のないことなのでしょうか。今もし有事となり、この国が戦火に巻き込まれたとしたらどうでしょう。多くの若者たち、大人たちはリアリティーの無いまま虚しい死を重ねることになるのでしょう。その様な社会においては重大な決断やそれを貫徹する勇気といった貴いものが欺瞞として笑いものにされてしまうのです。しかし、何事も「対岸の火事」として済ませようとする「あざとさ」や「無責任さ」は、いずれ悲しいツケを払う事になるように思います。そんな今の日本社会ですが、過去の日本には多くの人命を左右する大きな決断を行い、人道を貫いた人もいました。その人は杉原千畝(すぎはらちうね)という人物です。1940年、第二次世界大戦の最中、リトアニアのカウナス日本領事館、総領事だった人物です。

杉原千畝記念館は岐阜県八百津町にあります。ここは千畝が8歳まで育った町(村)です。

杉原千畝記念館は岐阜県八百津町にあります。ここは千畝が8歳まで育った町(村)です。

杉原千畝の痕跡と偉業が学べる記念館

杉原千畝という人物は1900年、岐阜県の片田舎、現在の八百津町に生まれました。その故郷には彼の痕跡を学べる記念館が建てられています。千畝は苦学の末、早稲田大学でロシア語を学び外交官となった人です。何故、ひとりの外交官のために記念館が建つのか?それは千畝が行った『ある決断』によります。

杉原千畝記念館。2階には千畝の故郷、八百津町が一望できる展望室があります。

杉原千畝記念館。2階には千畝の故郷、八百津町が一望できる展望室があります。

1940年・夏、杉原千畝が出した結論とは

外交官となった千畝はリトアニア・カウナスに日本領事館の開設を命じられ家族と現地に赴きます。戦争が激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、ユダヤ人の受入れ先はほとんど無いという状況でした。そして1940年、千畝にある決断を迫る事件が起こります。ナチスから逃げたユダヤ人たちがヨーロッパから離れるために、日本への通過ビザを求め領事館に押しかけたのです。早速、外務省にビザ発行の電報を打ったところ「正規の手続き無き者にビザ発給は不可」という冷たい返答でした。

杉原千畝記念館の正面入り口にあるモニュメント。その前で記念写真です。

杉原千畝記念館の正面入り口にあるモニュメント。その前で記念写真です。

「正規の手続き」とは「滞留期間をまかなう財産があり、日本での身元を保証する人物が存在している」という意味。ナチスから命からがら逃げてきた人々に、そのような身寄りや財産の持ち合わせがあるはずがありません。ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、祖国の命令に従うか。千畝の手記によると眠れぬ夜が続いたそうです。しかし、最後に千畝は人道愛に生きることを決心します。妻にビザ発給を許可することにしたと告げると、妻も「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と後押ししたといいます。そうしてユダヤ系難民に2,000通を超えるビザを発給します。ビザには家族の記名も認め、1冊のビザで家族全員が渡航することが出来る様にしました。千畝の発給したビザにより、約6,000人の命が救われたのです。

建物の中は撮影禁止なので許可をもらって入口だけ撮影。自然の木を多用した「森の県・岐阜」らしい内装です。触れると優しく心地よい。

建物の中は撮影禁止なので許可をもらって入口だけ撮影。自然の木を多用した「森の県・岐阜」らしい内装です。触れると優しく心地よい。

杉原千畝・「人道の決断」その後

外務省の指示に逆らった千畝は第二次世界大戦戦火の真っただ中のドイツから、さらに命の危機にさらされるルーマニアの公使館勤務を命じられます。最後にはブカレスト郊外の捕虜収容所に収監されます。その後、日本に帰った千畝は冷遇され公職を追われることになります。そんな中、1968年に千畝が発給したビザのおかげで助かったイスラエルの参事官ニシュリ氏という人物が面会を申し入れてきます。千畝が発給したビザを「命のビザ」と呼び、いつも胸の内ポケットにしまい、彼を探し続けていたというのです。日本からアメリカ、上海、インドネシア、オーストラリアなどへ渡ったユダヤ人の多くが千畝に心から感謝し、探していたというのです。「千畝、健在!!」の朗報は世界中を駆け巡りイスラエルの宗教大臣をはじめとした多くのユダヤ人たちの耳にも届きます。1985年、85歳になった杉原千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」という最高の名誉賞を贈られます。杉原千畝は「東洋のシンドラー」と今も称えられています。今日、ビザ発給から78年と言う歳月が流れていますが、この杉原千畝記念館を訪れ千畝の偉業を称える人が後をたちません。

唯一の館内写真。展示は杉原自身の歴史と世界史の関わり合いが解かりやすく整理されています。ナチスの収容所など悲惨な写真もあります。それらを使って「ビザを手に入れた人」と「ビザを手に入れられなかった人」のその後を比較してパネル展示されています。また、なぜユダヤ人たちが日本を目指したかという理由も丁寧に解説されています。時間により学芸員さんの説明もあります。

唯一の館内写真。展示は杉原自身の歴史と世界史の関わり合いが解かりやすく整理されています。ナチスの収容所など悲惨な写真もあります。それらを使って「ビザを手に入れた人」と「ビザを手に入れられなかった人」のその後を比較してパネル展示されています。また、なぜユダヤ人たちが日本を目指したかという理由も丁寧に解説されています。時間により学芸員さんの説明もあります。

驚いたことに、毎年、イスラエルをはじめとする外国から何千人もの人がこの記念館を訪れます。記念館には千畝が発行したビザの「発行リスト」の写しが保管されており、そのリストの中に自分の祖父母や曽祖父母の名前を見つけ感涙にむせぶ外国人が後をたたないそうです。

解説用のパンフレット。パスポート(ビザ)型をしており表には「愛・勇気・心」の3語が。

解説用のパンフレット。パスポート(ビザ)型をしており表には「愛・勇気・心」の3語が。

子供たちに勇気の意味を知ってほしい

実はかなり以前から「物心がついたら子供たちを杉原千畝記念館に連れてきたい」と思っていました。人は必ず人生において大きな決断をしないといけない場面に出逢います。事の大小や重軽はあっても必ず決断の時はやってきます。その時、信じた道をつらぬく『勇気』が求められます。子供たちには杉原千畝の決断をお手本に『勇気』について考えてほしいと思っていたのです。今回の訪問で、どれだけ思いが伝わったかは分かりませんが「80年近く昔にただならぬ事が起こって、千畝というお爺ちゃんが、皆のために勇気を振り絞って頑張った!」ということは理解できたようです。自分の人生に重ねて範とするには、まだまだ時間がかかりそうですが、9歳は9歳なりに様々なことを感じたようです。

杉原千畝の執務室。写真撮影ができないのでパンフレットからのコピー。実際に彼が仕事をしていた部屋の間取りや調度品、電話、筆記具などが精巧に再現されています。この部屋でビザに1つ1つサインをしていたのです。

杉原千畝の執務室。写真撮影ができないのでパンフレットからのコピー。実際に彼が仕事をしていた部屋の間取りや調度品、電話、筆記具などが精巧に再現されています。この部屋でビザに1つ1つサインをしていたのです。

8月15日、政治家や経済界の重鎮までもが靖国神社に足を運びます。多くの戦没者を弔う事は大変大事なことです。ただ、レッサーパンダは思うのです。皆、年に一度は杉原千畝記念館に足を運べば良いのに・・・。私利私欲を棄て、大きな決断をすべき立場にある我を再認識すべきなのです。政治家や官僚、企業の経営陣は杉原千畝のように人道を重んじ、悩み、決断する勇気を持っていただきたいと思います。晩年、千畝はこう述べています。『苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了(お)えたと、今も確信している』

記念館をバックに杉原千畝記念像と写真撮影。心なしか二人とも少し緊張しているようです。

記念館をバックに杉原千畝記念像と写真撮影。心なしか二人とも少し緊張しているようです。

(これは私自身もそうですが)皆が千畝ほど真剣に、誠実に自らの道に向い合えればと思います。そうすれば、今の日本の社会にはびこる「薄笑いと冗談でお茶を濁し、恫喝で私利私欲を満たそうとする」気持ちの悪さも、少しは清々しくなるように思えるのです。

今日は人道愛に生きた杉原千畝、その記念館を訪れたお話でした。それでは、また。

杉原千畝記念館

開館時間/9:30~17:00

休館日/毎週月曜日、年末年始(祝日または振替休日の場合は翌日)

入館料/大人(高校生以上) 300円  子供(小中学生)  無料

問合せ/記念館

〒505-0301岐阜県加茂郡八百津町八百津1071

TEL:0574-43-2460(代)  詳しくは  [杉原千畝記念館ホームページ] を参照

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コメント2件

  • シグリー圭子 より:

    51歳のこの年になるまで、杉原千畝さんのことを知りませんでした。今、国内旅行業務取扱管理者の国家試験に向けて勉強しているのですが、その中で岐阜にあるこの杉原千畝さんの記念館が出てきましたので検索したところ、貴殿のこのブログを見つけました。
    毎日勉強漬けの日々なのですが、思いがけずすごくいいお話を読ませて頂いて心が洗われた気が致します。思わず涙がこぼれました。 このような素晴らしい方がいらしたのですね。 私も、若い頃にあることがあり、それ以来、他人様の痛みのわかる人間になれるよう、それを目標としてなんとか日々精進すべく頑張っています。
    今日は、ほんとうにありがとうございました。お礼まで。

  • レッサーパンダ より:

    シグリー圭子 様
    レッサーパンです。嬉しいコメント本当にありがとうございました。実は私も杉原千畝さんの事をしったのは、そんなに昔のことではありません。しかし、彼の業績、彼を支えた奥様のことを知れば知るほど、子供たちにいつか杉原千畝さんのことを伝え、戦争の話をしないといけないと思っておりました。ここは小さな記念館ですが、善意の人が集うようです。館長さんのお話も心にしみます。関心をお持ちになったならば(出来れば若い世代を連れて)いつか出かけてみてください。
    こちらこそ、素晴らしいコメントをいただきシグリー圭子 様に心から感謝いたします。ありがとうございました。 レッサーパンダ

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